化石の夢

 ふと「忘れ去られることは美しい」という考えが頭の中によぎった。

 特に深い意味もなく、思いついた言葉だけど、なんとなく自分なりに考えることにした。やることもないし。 

 

 自分が考えた思考や言葉は永遠に残ることはない。いずれ消えてしまう運命だ。

 100年後、自分の生きた痕跡なんてさっぱりと消えてしまっているだろう。歴史の隠された一部分になっているはずだ。

 

 それは悪いことなのか?

 なぜ自分はそんなことを美しいと表現してしまったのか?

 

 自分はというと、こんな考えを頭によぎらせたわけだが、毎日の活動では忘れさられたり、消えていくことに心配を抱いていると言える。

 

 ツイッターのツイートが、時間が立つごとに消えていくとしたらなんだか悲しいし、鉄道車両も馴染みがある昔のL特急やらが引退してその姿が見れなくなったのも、寂しい気分になった。

 

 ありがたいことに、ツイッターは時間ごとにツイートが消えていくこともないし(いったい増え続けるツイートはどこに保存されていて容量オーバーになることはないのか心配になるが)、引退車両も動いてはいないが、鉄道博物館とかで保存されている。

 

 前に、岡本太郎の『沖縄文化論』を読んだことがある。

 その本の中で八重山の島々では、苦しい人頭税時代の文化として哀歌があったらしい。

 

 それが、時代が変わり人頭税が廃止され生活が楽になると、歌われなくなって忘れられていっているらしい。

 もう何十年も前の本なので今ではすでに消えてしまったり、忘れ去られた歌も多いだろう。

 

 本を読んだときはこの文化も保護された方が良いのではないかと、考えた。

 でも冒頭の考えをひっさげて考えると、考えに多少の変化が現れた。

 

 例えるなら、花が咲いて、そして散っていくという光景。

 苦しさに根差した文化が、生活が楽になり、次第に忘れられていく。

 

 なんだか儚くて美しいことに思えてしまった。

 

 感情も同じだ。

 永遠に残ることはない。

 

 思い出も。

 いずれ体験者本人が死ぬとなくなる。

 

 思考は文章にして残すことができるが、それも100年後ともなれば一体どれだけの言葉が残されていくというのか。

 

 要するに自分は、忘れ去られたり消えてしまう現象の対象になるものがいかに脆く、そして儚いということを裏付ける証拠として、美しいと思ってしまったのではないか。

 

 と結論づけた。